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Title : Peace
「20歳になったらたばこやめる宣言」をしていたけどやめられそうにありません。
といいますのも喫煙所に行けなくなるからである。 一日の喫煙所の滞在時間総計がやたら多いことよりも、 たばこ吸わないのに喫煙所に来るほうがよほど不審者です。 けれどそもそもあんまり追わない方がいいんだと、本によって諭されました。 友達の誕生日プレゼントに 「人のオトコを奪る方法」 という穏やかじゃないタイトルの本を要求されたので あまぞんで注文する際に、もう一冊彼女へ贈る本をみつけました。 「あきらめきれない彼を手に入れる恋愛の極意」という本です。 その友達はいま恋をしていて、その相手には彼女がいるのですが、 そもそもその人を好きになり始めたきっかけは別れた彼に似てたからなのですね。 そしてその恋もけっこう引きずってるので、今恋のバイブルと前恋のバイブルを 併せてプレゼントするかたちです。 でもほんとうは恥ずかしいタイトルの本を買わせたことへのお礼と、 ちょっと読みたかったけど部屋に置いておきたくないからプレゼントして 後で読ませてもらうという目的です。 しかし届いた本をプレゼントする前に読みました。 べつに復縁とかの次元じゃないんだけどね。いろいろ参考になる内容です。 とりあえず追い過ぎてはいけない。退かれちゃうから。 けど男友達に「ゴリ押せ」と言われたのは気がかりです。 とりあえず最終的には私がみりょくてきなじょせいになること が一番良いみたいな結論の本だと思います。 もっともだと思います。 ![]() PR |
Title : AOHARU YOUTH
いまはなぜか油彩をやっている。
描きたいときに描けるからねこれ見よがしに描き始められて良い。 けど今扱うべきは岩絵の具なのにこうやっていつもやるべきことからは遠ざかっている あいかわらずの私だ。20歳でも何も変わってないやー 20歳になったらどうなってしまうのだろうという訳のない焦燥があった。 20の大台に乗ったらもう遊んでられない気がして けど焦って何も手が着かないのはマーベラス・本末転倒でした。 とにかくこれからも絵を描いて行きます。 20年の間に関わってきた人々、これからもどうぞよろしく。 今日からは生まれ変わったつもりでやっていきます。 そんなことよりコロッケが食べたいよ。 20年というのはけっこうな長い年月だけど、 それでも大人にならない。人間は要領の悪い生物だなあー と、バイト中とかにぼんやり思った。 魚や他の生き物は息をつく間もないほどの早さで生きているのに ふしぎだなー さぞかし他の動物はにんげんに興味津々だろうと思う。 最近友達の影響もあってラーメンズのコントをよく観ている。 ずっと敬遠していたのだけど。だってなんかびだいせーぽいなーと思ってさー でもいいなあーと思ったので観てる。 最近は実に陽の雰囲気がもっぱら好ましいのである。 悲しいことを悲しく表してもなあーと。 とくに「器用で不器用な男と不器用で器用な男の話」というのは毎日観ている。 やっぱり結局共感してしまうのだった。 これは焦燥感そのものなのだけど毎日毎日観てしまう。 めをそらせないー 高山辰雄先生、どうぞ安らかに ![]() |
Title : ハタチ前の私
9月に入ってからのここ数日のこと。
必修単位の特講の学外実習で新宿に行った。 かなりイライラする授業だった。吐き気がした。 内輪で芸術賛美する感じが実にイヤだなあと思う。 ワークショップを開いて、アートにふれあってもらおう という企画等も、結局はそもそもがアート好きな人しか集まらないわけだし そこで最終的結論は「アートはこんなにすばらしい」しか出なくて 同じ趣味の人間同士で自分たちの価値観を賛美し合って、終わる。 気分が悪い。なんの進歩も無い。 「アートをより多くの人たちに感じてもらいたい」と思う気持ちが本当なら そもそもそういう催しの呼びかけに見向きもしない人を対象にすべきだと思う。 そして、どうしてそんなにして「アートはすばらしい」という価値観を広めなくてはならないだろうか。 まるで新興宗教と同じだ。 「アート大好き」も一種のマインドコントロールだ。病気だ。 私も病人の一人だ。 気持ちが悪い。 と、そんなことも思いつつ、実はそんなことどうでもいい。 その新宿での実習の後の予定で頭がいっぱいだったから早々に切り上げた。 展示に行ってしまった。 とても怖かった。まずグループ展だからあの人が丁度いるという保証は無いし 居たとしても、私を覚えていてくれているのか どんなリアクションをされるのか とてもとても怖かった。 友達に一緒に来てもらった。とてもじゃないけれど一人は無理。 彼の影に隠れながら中に入ると、あの人はいた。 そして、覚えていてくれた。ちょっと驚いていて、たぶん喜んでいたと思う。 それは、ギャラリー展示に客はほとんど来ないし、 その時も私と友達2人だけだったし、しかもちょっとした知り合いだから、 嬉しいだろうと思う。 声を掛けてくれた。2回もこんにちはを言われた。どんな声の掛け方だ! しかし私は会釈くらいしか出来ずめちゃめちゃ話したいオーラを出してるあの人をかわして来てしまった。 a ho da そんなんだったから、地下鉄の中で用意した自分の連絡先の紙切れを渡すことが出来なかった。本当にダメダメになってしまう私。 新宿で全然知らないサラリーマンには平気でインタビューして本音を聞き出したり出来るのに(かなりインタビュー能力を買われた) あの人にはまるでダメだ。アホアホだ。気持ち悪い自分。 ギャラリーには出入り口付近にそれぞれの人の感想用クロッキー帳が置いてあった。 一緒に行った友達が隣にあるフライヤーとかを熟視してかなり時間稼ぎをしていて 手持ち無沙汰だったので、あの人の感想帳に感想を書いた。 当然ながら書いてるところは本人にすごい見られていた。 ひとしきり感想を書いた後(といってもチョロリだけど) 友達にドツカレながら、自分の連絡先を書いた。 もう普通の頭ではなかった。メールアドレスを間違えたから挿入マークとか使った。 それでも正確に書いてきた自身がまるで無い。 ギャラリーを後にするときも、朗らかに挨拶する友達に比べて私は顔を見せずに会釈して帰ってきてきまった。 出た後で友達にめっちゃ呆れられた。 本当に恥ずかしい。本人いるのに何で言わずに書くのかと。 普段が普段なだけに、ギャップが激しくて自分でも呆れてしまう。 けれどもクロッキーに書いたことが私の精一杯だった。 というか、覚えていてくれたことが嬉しかったし もう色んなのがゴチャゴチャになってゆでダコのようになってる私を見て 友達はさらに呆れていた。 あれから数日たつけれど、いまだに連絡をもらえない。 さてどういうことなんだろうか。 もう本当に気がないから諦めてくれというのか まだクロッキーを見てないのか(有り得ない) 本当にアドレス間違って書いてたのか にぶいのか ホモなのか なんなのか 三度目はないわー。もう過去2度の失敗が蓄積して合わせる顔が無いです。 だけれどもどうにかしなくてはならないのである。 どうしよう。 あの日初めてあの人に会った友達は、それ以来ものすごい頻度であの人を目撃しているけれど 私は全然巡り会えない。 会いたいけど、会ったとしてもどうしたら良いのかわからん。 気がないからわざと送らないって場合にはどうしたらいいんだ。 傷つきたくないよー それでも私は懲りずに喫煙所に足を運ぶ。 今日のらくがき ![]() |
Title : 聖域
今日から三日間、9時から4時過ぎまでの集中講義。
学校自体へはやたらと行っていたので特に新鮮さは感じなかった。 けれど、とても授業がつまらなく感じてしまった。 これはごく自然なことで、当然と言うべき事なのかもしれないけれど 美術大学の場では、根底の前提意識として「美術万歳」がある。 特に私のやっているような勉強では、そういったことが色濃く感じられて当然。 そもそもその存在自体に疑問なんて感じていたら話が進まないしね。 だいたいがみんな美術やりたくて入ってきてるし、教えてる人もそうだし。 私はこの夏を過ぎる間に、その絶対的な聖域に違和感を感じるようになっていた。 今日久々に授業に出て、そのことを痛感した。 どうしても、なにか違う気がして どうしても、なにか見失ってる感じがして どうしても、酔狂な面が否めない。 勉強の内容を否定することはしない。立派な学問であると思うけれど どうしても私は、気持ちの中の違和感に目を瞑ることが出来なくなっていた。 もっと、「美術なんて必要ない」とか、そういう極端な切り口から話が始まる授業を受けたい。 この聖域を見直すことから目を背けずに、もっと根底から美術の社会的な意味性を変えて行けたら良いのに。 なんぼおもんないと思ってしまっても、単位だけは要領よく取らなきゃならない。 おもしろくないとかなんだとか言って逃げるのはもうできない。 いよいよ、編入を頑張ってみなくてはと思う。 制作、今日改めて考えてみると、計算が合わなくて青ざめた。 編入に直接関わるものだけでなくて、芸祭関連の諸々をしなくては。 誰かがレクチュアすることより、自分で動いて感じたことしか信じられない。 自分のためにも、大人になって授業は聞いとこう。 そして黙々と作業。 ガラにも無く予定計画表を立てよう。本当にそうしとかないとやばいぞ今回はー ![]() |
Title : かえった[帰・還・孵]
お盆中実家に帰ったこと。
いろいろあり過ぎて総括するのがたいへんだ でも実りある数日間だった(美大生としてのほうで) 失意を抱え実家へ。 翌日、毎年手伝っている馴染みのお寺の「施餓鬼」という儀式へ。 建築家のお仕事をされている方とも再会。日本の業界の模様を聞く。 すこしひるんだ。こんな様子で、私たちは変えていけるのだろうか。 街の景観を、当たり前に広がる景色の美意識を変えることは 思った以上に難しそうだ。なにしろ、政治とか、お金とかね。 やっぱり、勉強して、お金持ちになることが必要だと感じる。 そして和尚様は「中国の社会事情」について皆に話されていて 聞きながら私は落ち込んでいた。なぜなら やっぱりアートなんて、享楽的で金持ちの戯言に過ぎないのだな と、かねてから思ってたことを再燃させていたから。 中国の社会格差、格下になってしまった人々の暮らしの凄まじさは 話としてはしっていたけれど、和尚様が殊更「食」に関してのことをお話しされていて、なんとなくピンときて悲しくなった。 教授の話していることと全然ちがう。 「食」を専門としている先生がいて、その先生は中国と言えば上海蟹! というような、中国のグルメに関して話していたことがある。 その時は特に何の気無しに聞いていたのだけれど、 その話がいささか広い中国の全てではないことに私は気付いていなかった。 マネジメントにしてもミュゼオロジにしても、前提としてあるのは 「先進国」「生活の社会水準が最低限を満たしている」 もっと言えば「欧米に遅れるな」が根底にあって 上の人たちの話でしかないんだ。 もっと庶民は、その日の食糧を考えなきゃならない人は、 話にはのぼってこない。 論外。 ああなんで気がつかなかったろうと思って そして悲しくなった。 やっぱり芸術なんて必要ない。 と、かなり落ち込んで帰った。 夕方、母に勧められるがままに「京都五山送り火」の生中継を観ていた。 山肌に巨大な文字が炎によって造形される。 街ぐるみで協力して電灯を落とし、街ぐるみで行う造形。 その炎に人々は故人の魂を想う。 そこでまたピンと来た。 芸術と対峙する姿勢は、故人を想うときと同じだ。 とても厳かなものだ。 そうだ何を忘れていたんだろうか 芸術はそれ単独では存在し得ない。 特に、信仰との結びつきは捨て置けない。 むしろルーツなんだ。 それが、芸術そのものだけの概念が一人歩きして 私の中や上流社会と呼ばれる場で定義されていたんだ だから必要無い形で肥大してたんだ そうだ忘れてはいけないや。 それから二日間ぐらいだらだら過ごし、 その後1泊2日の家族旅行に北茨城と福島へ。 実際は私の目的に両親と兄を付き合わせただけだったけど 塩屋崎の海岸で波をスケッチする。 海への興味が徐々に大きくなる中で、そしてタイムリーな話題もあり 「波」への思い入れが出来た。 だけれどあと5回は海との対話が必要だなーと思う。 家族を待たせているとなかなか没頭もできなかったし、 夏の間に東京のここから近い海へ小旅行しよう。 水族館へも行けた。だけど水族館の立地の環境は不思議だと思った。 海岸近くは不自然でいっぱい。 五浦の天心美術館へ行って、帰り際につくば美術館へ行って。 つくばはテキスタイルの展示だった。思うこともあった。 ●テキスタイルのディスプレイはいつも凝られているけれど作家はディスプレイのことを想定して制作するのか。ディスプレイにどこまで関与するのか。 ●素材と技法との掛け合いが造形を成すという思想にはとても納得がいく。けれどテキスタイルアートの素晴らしさの中に「用の美」のようなんと近しい価値があると感じる私は今回の作品の多くに彫刻立体との差異を問いたい。 なんつてー そんなこと言ってつくば美術館とてもよかったです。 テキスタイルに積極的な姿勢を持つようになったのも単純な理由。 今回の旅行の間にふとよぎったこと。 私の作品は視野が狭い。 かなり私の視点でしかない。 それが持ち味なのかなー それを意識して50号に取組もう。 さあ寝よう。明日は会えますように! ![]() |