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今日はキムジョンイルの誕生日です

今日は私の初恋の人の隣にいる人の誕生日です

明日は私の初恋の人の誕生日です



狂気の日です
乱舞の日です
ああ11月に聴いてなくてよかった
今日の今しがた聴いたのがよかった
聴いた
効いた


好き!
好き!
好き!
本能のレベルで!
下品だけど的確な言葉で言うと
濡れる!


いつ冷めるのか初恋
10年掛けてどんどん好きになる!
ええ三十路後半のオッサンよ
あんたがヨボヨボになっても進んで介護したいくらいに好きだよ




バカと言われても好きなものは好き!
でも人にはあんま勧めない
バカなの自分で知ってるから



ああそうか、
アチャラナータの救済方法

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Title : Bravo!
北茨城のマウントあかね周辺にある花園神社。たいへん霊験あらたかな場所で、すごい。まさにオーラの泉。心身が回復しました。やっぱり山はすごい。神様がいる。



その上で蟲師を観たので、大変だった。なんてブラボーなアニメーションだ。

アフタヌーンはハトのおよめさんしか読んでなかったので、蟲師はしみじみ読まなかった。でも今原作大人買いの雰囲気。映画は気が向いたら観ようと思う。




都心からはずれた静かな場所へ行くたびに思い出すことは、何かで読んだ「アーティストが郊外在住へ偏っている問題」という文字と、「その国の中心地がやはりアートの中心地であり」という特論の一片。
それなら逆にアーティストは都市に住むべきなのかといえばなにか釈然としないし、都内のアートスポットと呼ばれる場所が全てかと言ったらもちろん違う。

都市型のアートとそうでないアートとがある。
都心を中心としてマーケットに需要を持たせているのは、やっぱり都市型のアートなのだというのは今更だ。
それらが「顔」なら、それ以外だけど確かに存在しているモヤモヤしたグループは一体なんなんだろ。
確かにいえるのは、モヤモヤ組は都心と相容れがたいし、街の喧騒の中では生まれがたい気がする。(逆説的に生まれるかもしれない)
市場から求められないものは必要ないのだろうか。そうしたらそれはデザインみたいなことになってしまう。
だけど絵描きはどうやって稼ぎを入れるのだろう。
そもそも、なんで海外に売れなきゃいけないんだろう。
なんかいろいろなことに盲目になってる気がする。だけどなにが正しいとか、これもやっぱり、ないな。


結局あれは、一元論だよなと思う。

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Title : だだ
渋谷・目黒・新宿へ行く。

まずいことにテンションがだだ下がりしてしまった。都心は疲れます。だいいち、右膝の裏がただれてグッチャグチャだ。なぜ右だけか。

庭園美術館で舟越桂氏の展示を観る。念願叶って実物に出会えた。なるほど、夜に出す頭は、亀頭だなーと思った。ははは
ああいったかたちの展示空間もすてきだなあ。お誂え向けかと思うほど。庭園美術館へ行くのは初めてだったけど、展示替えのたびに観に行きたくなった場所でした。あの空間の中で他の作家の場合はどうするのか、観てみたい。そして自分でつぎにホワイトキューブ以外でもやってみたくなった。
ただ正直な話、どんな素敵な空間作りであっても、混み合ってるとなんか嫌です。そういうどうしようもないことを思う。

欲しかったCD三枚やっと買った。すばらしい。
A BURNNING FIRE!!!!!

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Title : 性分
映像映画鑑賞嫌い観劇嫌いなことは方々でさんざん言い散らかしているけれど、舞台をやると決めて動き始めたぐらいからわりと観ている。映像演劇と舞台演劇とでは大きく性格の異なることは承知である。
そうして観ているとなんと自分は涙もろいんだと驚愕する。つまり私が映像や舞台を観たくないのはこの単純な性格が災いして入り込みすぎてしまうからなのだったと思い出す。
さっき実家を出るときに大河ドラマが流れていて、食わず嫌いだったものの観ているとなんと面白い。今日観たぐらいなうえに歴史の才能皆無ということで非常に頭の悪い説明になるけれど、篤姫の側近のひとの演技を観ていて泣いてしまった。あの女優さんは誰だろう。

演技がどうというか茶の味という映画は私のアイデンティティーそのものなのだけど、二度目三度目に筋を知って観たとき我修院さん演じるおじいさんは何やってるシーンでも泣きたくなる。もう10度くらい観たけど10度くらい泣いている。

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仲良くしてもらっている院生さんと学内でやってる日高理恵子展に行った。日高先生に去年お世話になって以来いろいろな意味で目標にさせていただいている。残念ながら今年からはうちの科の非常勤ではなくなってしまったけど去年見ていただけたのもなにかの因縁のようかと思う。作品を生で拝見するのは初めてだった。緊張感と安心感と自虐と寛厚の空間に立って頭の血液が激しく流動する音を聞いていた。この異常感はたまらない。この異常は自分の描き出したい種類のものだった。しかし目の前にあるのは日本画だという事実に疑いはないのだ。絵柄がではないもっと精神的なもの。これは日本画。私の絵は自他共に認めるように膠画と言った方が正しい。この違いは何だ。この違い。それを埋める必要があるとも思わない。だけど知りたい。この違いは何なのだろう。
人体の課題の落とし込みを考えていた時だった。どうしたらいいだろう。今日は自主休講してしまった。

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