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Title : 回顧
縁起でもないことだけれど私が死ぬのはたぶん冬か秋なのではないかと思う。
今朝見た夢が忘れられない。
アートマネジメントの際に出たワードが一気に今朝の夢と結合して回路になった。
我々がこれからアカデミズムを形成するものを拾い上げて行く基準は幸福や生き方の指標を示す・Lifestyle Managementをするということである。バックミンスターフラーやレイチェルカーソンの提唱は今この時代に然るべく形にして生きている。現代にして言えば個へと細分化して行ったコミュニティ・精神性をどのように再構築するかという問題である。
今朝見た夢は何のことは無い家族の夢だった。不思議なほどに幸せで不思議に悲しかった。


意気消沈しているというか、疲弊しているんだなあと思った。ニーズが。
幸福を求めているのに今表現されるのは孤独とかそういうのが多い。
というかアートの現場の人が先を先を(行く末を)汲んで表現するのならどうしても悲観になりがちなのかもしれない。だって常に問題視しているわけだから、アイロニカルでアナーキーになりがちだし、鬱々とした空気を纏うんだなあ。


奈良美智かあ。
キュレーターが思ってる以上に世の中は奈良美智の思想を観てないんじゃないかと思う。版画の先生2人の議論を思い出す。(奈良美智の存在はアーティストの間でも話題の的のようだ)あと春にマイクロポップ展を観たのを思い出す。ポップと言いつつも逆にとっつきにくいマイクロポップ。今になればなるほど意味性やキュレーターの思惑が観えてくる(この話が出る度に言ってるけど水戸芸術館は素晴らしいですていうか茨城県はすばらしい。あの近美と芸術館を公立で維持してるのは本当にすごい。郷土の誇りです。)
だけれどそれはあくまでキュレーションの観点なのだと言うことは忘れてはいけない。説明の上の納得であることを忘れてはいけない。やっぱり何かズレがある気がする。キュレーションの立場と人々が。あんまりそのミゾが大きいと「ぽっか〜ん」である。なんでノートの切れ端や新聞紙が、壁の落書きが、乱雑な部屋が、作品として成り立つんだろう、となってしまうのだ。価値を見出せなかった場合には、金払ったのにみたいになってしまうのだ。きっとそういうのも視野に入れていたのでしょう料金は妥当でした素晴らしいです。
接続端子である美術館を含め、アートの現場ではコンサバな思想は排除しなくてはならないけれど、あんまり次元が違い過ぎても、伝えたいことを上手く伝えられない結果に終わってしまっても、それはそれで困る気がする。その間を縫うのがマネジメントなんじゃないのかしら。本当にその兼ね合いと来たら難しい。だけどあれはそれでもめげずにコンテンポラリーを保つ姿勢が凄いんだと思う。あれを悪の巣窟でやっても意味が無いんだと思う。それにしても先生好きだ。悪の巣窟、本当そうだと思います。部外秘らしいからあまり書かない。笑
このあいだゲイと話し合っていた内容も飛び出したので興味深かった。静かな熱意、っていうワードも。たぶん私は先生とめちゃくちゃ気が合うと思う。でも残念ながらゼミはタミフルにしました。

久しぶりに思い出したけどやっぱり美大は美大でしか成り得ないというか、やっぱりどうしてもある意味で考えが凝り固まってしまうと思った。それにしても夏頃の日記は今読むとなかなか面白い。なんであんなにギンギンに尖ってたんだろうね。たまにあれ読むことにしよう。

眠い。昼寝する。

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Title : 心境メモ
ちがうわ、今年のおみくじ「待ち人 来るとも遅し」だ。




来るともというのは、「来るとしても」なのか、「来るんだけど」なのか
また、遅しは、「今年12ヶ月間の中で」なのか、「人生の長いスパンで」なのか
今年の話だとしたらもうそろそろかな。あ、遅しっていうのは「肝心な時には来なくて、事後に来る」っていうことなのかな。リアルー。


出願をした日に久々に友人とちゃんとした話す時間を設ける。多分彼は将来ゲイになるだろう。私は早いところ彼のお母さんに会いに行かなくては。「あんたがもたもたしとるから実家行かれへんようなったでー」と言われる。お母さんが体を壊されたらしい。といっても心はお元気なようで安心する。「私占い師になるわー」ということで今統計学の勉強中らしい。早く会いに行かなくてはならない。でも彼が実家に帰るのは私の試験の前日だそうで、しかもどっちにしても今から試験まで会いに行ける余裕が無い。待ち人来るとも遅し。私がその友人に自分の絵に関して悩んでいることを話したら、「うん、おかんも言うとったやんかあ、『ほんまは可愛いお花の絵とか描けるんになあ』て」と言われてハッとする。そうだ、スコーンと忘れていた。おつげの内容、なんでだか、あんまり思い出せなくなってしまった。
待ち人とは一体誰のことを言うんだろう。心当たりは2人いる。何にしても、私がそれを渇望している時期には絶対に出会えないということを私は知っている。


少し前まで、私は水でいたいと思っていた。可変性で水平を保って潤す存在でいたいと思っていた。でも一番水が足りてないのは私自身だった。そういえば私は苗なんだな、とバイト中にぼんやり思った。ひからびて地割れしたところに醜い色をした苗が這い出ているのが想像される。その通りすぎて笑った。美藍も古代紫もくすんで見えるのはその所為なんでしょう。それなら私は自給自足に縁がないんだ。そのことは少し悲しいと思った。
水を吸い過ぎて根腐れした丁度1年前を思い出す。そして今はこんなにもひからびている。状態としてはさして変わりがないなと思う。過ぎたるも及ばざるもだめなんだ。
夏のせらせら反射する水田を思い浮かべる。やっぱり私は夏なのかもしれない。良い香りをはなつ苗になりたい。水はどこから湧き出てくるだろう。私は待っているだけなのかしら。こんな枯れ果てた体を浸すのがはばかられてしまう。まず自分でちょっとばかり潤わなくてはならない。

なんとなく最近両親にも会わせる顔が無い。両親はきっと私に言いたいことがあるだろうけど何も言わないでいてくれる。このあいだゲイと話しながら「私は誰にも信じられていない」と思った。両親にもゲイにも信じられてないような気がしてとても悲しい。だけどもう無理なんだ、この目の前の男も私も、もう無理なんだろうな、とも思った。そうしたら過去も未来もなくなってもうこの一分一秒でしかなくなった。

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Title : 胸をえぐる
有名な「野ばら」という曲があります。ドイツの童謡で、ウィーン少年合唱団がよく唄う感じの。かの唄にはシューベルトの作曲のものと、ウェルナーの作曲のものとがあります。私はウェルナー派です。ていうだけのお話なんですけど、
大敬愛する大野一雄氏のDVD「御殿、空を飛ぶ。」の中の、確か「狼」という舞踏の音楽として使用されている箇所があります。そこは、何度見ても背中がぞくりとします。
大好きな曲なのですが、CDなどではシューベルトの作曲のものしか見つかりません。すごく聴きたいのに。
“野ばら欲”の抑えきれないあまり、私はたぶん来年の4月あたりに友人数人とリコーダーで合奏するのでしょう。

最近は欲しいCDが有っても“グッ”と我慢している私ですが、さすがにこれだけは無理だと言うものが有ります。



死にそうな状況に陥った時に聴こえてくる音楽「Glosoli」でもおなじみのSigur Rosの新譜が出ているのです。なんだい、もう。なんなんだい、と。
ていうかこの動画はなんで変なところで切れているのか。大体この映像はなんなんだろう。前半ちょっとは良いとしても、過去のPVの切り貼りと、あと、なんだいこの、最後の数秒。なんでリフレーションしたの?この動画の映像が一番音とのマッチングが良いんです。良いと思う。


タイトルに関して、「視覚芸術は信号で、音楽は振動だから、人々に与える作用の有り方も違ってくる」というようなことをツラツラ書いていたけど、「美と恐怖は表裏一体だ」とかまで話が広がっちゃった上に、自傷行為っぽくてなんかしんどいのでやめた。引き合いに出せないものだしね。でもけっこう問題視?想いを巡らすことであったりもする。みんなはどう思ってるだろう。

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土日の48時間かけて「ガングレイヴ」を全26話観る。 
 




内藤アニメ本当に良いや。 
 
とてつもなく色々なことを考えてしまって 
後味とても重たい。
 
 

2003年に放映してた頃、観てたけど
その頃はかなりよく解らなかった。
やるせなさそう とは感じてたけど
ミカがわめくのが本当に嫌だったってだけで
今も嫌だけど
千と千尋とか私はわめきキャラが苦手の様子。

だけど今になって観たら目が離せなくなって
一気に休まず全話観てしまった。
そして、観直すことが出来ない。重すぎて。


なぜ今になってこんなに感動して、
そして重く感じられたんだろうか。
大人になったから?
へんなの。最近そういう感じが多くて困る。


ある程度の経験とか、ある程度の教養とか
そういうのがないと感じられないものってたくさんある。
芸術もそうだし。デザインも。
その骨組みを勉強するようになって、それで
作者への慰労みたいな感じで作品を観てたり
少し数を観てきた中の比較とかで観てたりする。
たまに母親と美術館に行ったりすると思い知らされるけど
私は一人で勝手に感動していたりする。
なんでそんなにツボるのか、母親には解らないらしい。

私はそれが歯痒い。

自分より他の誰かに感じてほしい。



そういうある程度の経験とかが必要になるものほど
当然人気が出ない。
コアに表現し過ぎてて伝わらない。
そして、アニメ表現よりも、ハイアートと言われる表現は
もっと伝わらない。

以前、「漫画はアートか?」という議論を
恩師としていたことがある。
先生は、「そうは思わない」と仰っていた。
私はその時は、先生の話を聞いていただけだった。
今自分で考えるに、アートだと思う。
賢い表現方法だと思う。
伝えようという意志の観られる表現方法だと思う。






ずっとずっと心につかえてる事実
アートは何の役にも立たない。
例えばもし、イラクの戦地のまん中にモナリザを置いたら
何になるのだろう。
銃弾を避ける盾ぐらいにしかならない。


それを思いながら、なんで私は絵を描くんだろう。


そんなこと思ってたってどうせやめないし、
他に直接的な支援とか、直接的に役に立つこととか
何も出来ないくせに
そんなこと思ってたってどうせこのままやり続けるくせにね。
頭悪い。





私は、ブランドン・ヒートになりたいハリー・マクドエルなんだ




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