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ものすごくたぎったりものすごくしぼんだり
開演前の朝ってこんなかんじだっけ?





事後追記


初日終了。まだ頭がゴワゴワしていて何も言えない。いっぱい言いた過ぎて何も言えない。でも今なにか言ったら負けな気がする。観にきてくれて久々に再会した友人にもうずいぶん言ってしまったので惨敗だ。

私は舞台に立つのが好きだ。それは確かだ。痛感しているのだ。
けれどもこれを以てしばらく封印することになる。そう決めてかかった決心が揺らぎそうなほど、演じることが好きだけれど。

公演後ふわふわしていた頭も、学内の展示を観て頬を張られた。

だから、明日も、大事に演じようと思う。


それなのに神様は今日私に意地悪をしました。私を廃人にしたいのだろうか。

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Title : 氷の粒
モギケンが出てた脳科学の番組で、天才の脳についてやっていたのを観たことがある。
自閉症患者の中に、脳の一部が過剰に活性化する症候群の人が稀に出ることがあるのだそうだ。
中でも記憶力の面が天才的に特化する。


その内に、天才風景画家というのがあった。
彼は一度見た風景を、実に細部に至るまで記憶し、その記憶のみによって正確な風景画を描く。
神懸かり的なものだと思う。
しかしそれが脳の活性化による業であるということは、人間本来のポテンシャルということになる。
つまり、神業ではないのだ。


もちろん私は彼に嫉妬する。
全く一握りにも満たない人間がそれを開化するということは、神に選ばれたに等しいことだ。
しかし、考える。
彼にとってみれば、記憶の風景を描く行為は、頭の中の写真を写し取る行為なのだそうだ。
それは、ニュークリエイトではない。


神とは、巨大で膨大な未知。
未知を受胎して身体で成形するのが、アーティスト(と、飛呂彦は言う)
もちろん、ほぼすべての人間が駆使できずにいる知らない能力は、未知だと言えるからつまり、アートなのだと思う。


だけど本当に、未知は人の手から生まれるのだろうか。
信じていることだけれど、

脳で廻る生き物だから。
脳で知る。脳で感じている。
シックスセンスの類も、脳が感じ取って、認識するのだ。

未知とは、人の枠を超えていること。

脳で感じたものを、脳が“造れ”と言う。ならそれは、人の枠内の出来事?
所詮アートは、人の枠内で生まれるのだ、


そこまで考えて、そりゃそうだと思った。



重ねて言うが、天才風景画家はすごいと思っている。

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Title : Bravo!
北茨城のマウントあかね周辺にある花園神社。たいへん霊験あらたかな場所で、すごい。まさにオーラの泉。心身が回復しました。やっぱり山はすごい。神様がいる。



その上で蟲師を観たので、大変だった。なんてブラボーなアニメーションだ。

アフタヌーンはハトのおよめさんしか読んでなかったので、蟲師はしみじみ読まなかった。でも今原作大人買いの雰囲気。映画は気が向いたら観ようと思う。




都心からはずれた静かな場所へ行くたびに思い出すことは、何かで読んだ「アーティストが郊外在住へ偏っている問題」という文字と、「その国の中心地がやはりアートの中心地であり」という特論の一片。
それなら逆にアーティストは都市に住むべきなのかといえばなにか釈然としないし、都内のアートスポットと呼ばれる場所が全てかと言ったらもちろん違う。

都市型のアートとそうでないアートとがある。
都心を中心としてマーケットに需要を持たせているのは、やっぱり都市型のアートなのだというのは今更だ。
それらが「顔」なら、それ以外だけど確かに存在しているモヤモヤしたグループは一体なんなんだろ。
確かにいえるのは、モヤモヤ組は都心と相容れがたいし、街の喧騒の中では生まれがたい気がする。(逆説的に生まれるかもしれない)
市場から求められないものは必要ないのだろうか。そうしたらそれはデザインみたいなことになってしまう。
だけど絵描きはどうやって稼ぎを入れるのだろう。
そもそも、なんで海外に売れなきゃいけないんだろう。
なんかいろいろなことに盲目になってる気がする。だけどなにが正しいとか、これもやっぱり、ないな。


結局あれは、一元論だよなと思う。

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Title : ああ
ものっすごいエロい夢をみた。
いやそんなことはいい。
それより、夢の色味というのは天然色映画を観ているようだと思う。

しっくり来るという言葉もずるいのかもしれないけれど、そういうことなのかもしれないと思った。自分の夢はもちろん現の視覚も、他人と共有することはできないし、だから私もだれかの視覚は永遠に知り得ない。
(だから相手が存在してる確証がない、)

私の目に心地良い色味で、私の観たいものを描く。というのは理由になるだろうか?
もとより、なぜそれをするのか、という問いかけに対して述べられたもっともらしい論理的な回答の方が胡散臭い気がする。
しかしそれをあえて問われたということは、考えろということなのかもしれない。

けれども、考えれば考えるほど、ひらめけばひらめくほど、飛呂彦の言ってることに身を以て納得するかたちとなり、ムカつく。
結論、無意識的な思考(嗜好)が、受胎した何者かによって選択を誘われているとしか―――あームカつく。


総天然色動画さよなら絶望先生のオープニングアニメがとても好き。



そう、今、首が回らなすぎてくくりたい状況下にいるのである。

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Title : あめがふり
秋がすき。でも秋はさびしい。きのうは1日良いお天気で空が良かった。夜中には星がきれいだった。きれいだけど、空気は昏睡状態患者の病棟のにおいがする。

そこに叔父が五年いる。こんどの9日で丸五年になる。長くともおそらく今週中には、という知らせを受けたのは今日のことである。

秋は死臭が漂っている。

等間隔に人が横たわっている部屋で名前の付いている類の感情とか感覚が起こらない。視覚的なものを情報処理しているだけ。夢を見ているときと似た感覚だと思う。

でも、ああこれは秋のにおいだ。という五年前の合点があんまり鮮明である。






I THOUGHT YOU WERE MY PAL/TOMAN

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